橘 英俊 (日本クリニック医師)
専門:医師
年齢:n/a

北里大学衛星学部卒業後、69年に渡米。セントバルナバス・メディカルセンターで臨床病理学を研修。台北医科大学医学部を経て、ニューヨーク足病医科大学を卒業。現在は日本クリニック・マンハッタン院長。下肢整形外科、スポーツ医学科、足病科、ペインマネージメント科。

橘先生はなぜだかモテる。女性にも男性にも、アメリカ人にも日本人にも。先生と話していると、いつの間にか体の痛みが和らいだように感じ、不安も薄らいでいく。大きな体とよく通る声。冗談交じりの巧みな話術が周りを明るくするのだろう。多くの人たちに囲まれ、アメリカ生活を満喫しているかのようにみえる橘先生。ところが今回インタビューし、この明るさはアメリカで生き抜くために彼が見出した処世術なのだと知った。偏見やいじめ、貧乏や裁判など様々な困難を経験する中で、先生なりにこの地で人生を楽しむ術を体得したのだ。

「一日でいいからぐっすり寝たかった」 学生時代

1969年に北里大学衛生学部を卒業した橘先生は、研究者としての道を歩むべく渡米。セントバルナバス・メディカルセンターで臨床病理学を学ぶ予定だった。が、渡米してほどなく白人女性と恋に落ち妊娠、結婚、出産。「研究者では家族を養うことができない」と医者の道を志す。ところが医学部への入学は難しく、人の紹介を経て台北医科大学医学部へ進学。
  しかし今度は日台関係の混乱から台湾を離れざるを得なくなり、日本に戻って医療機器メーカーの営業マンとして働き始める。でもやっぱり医者になりたい。今度は頑張ってアメリカの医学部に進学、6年かけて足の専門医となった。

この間の苦労話にはこと欠かない。アメリカで大学に進学すると勉強が忙しくなり、家庭のことがついついおろそかになる。夫婦仲は険悪になり、やがて離婚へ。当時のアメリカは離婚に際して特に男性に厳しく、子供を引き取ることなど望むべくもない。しかし養育費は払わなければならない。子供との面会時間には5分遅れても5分早く行っても翌日には弁護士に叱られる。約束のお金を期日までに払うことができないと、すぐに催促の電話。学生の身で弁護士のフィーを払い、学費を捻出し、子供に仕送りをしなければならない。
  金を貸して欲しいと友人に頼んだこともあるが、貸してくれるわけがない。週末は大学の病院でアルバイトをし、平日も夜11時から翌朝6時まで働き、病院のシャワーを浴びて学校に出かけるという毎日が続いた。学費とフィーと養育費を支払うと手元に残るのはわずか。食事は毎日、スパゲティを作って凌いだ。
  その大学でも教授には英語力を批判され、いじめられ、苦い思いをした。「とにかく一日でいいからぐっすりと寝てみたいと思っていた」。先生は学生時代をこう振り返る。

夢は世界一周

 日本人だけでなく、アメリカ人の患者も数多く診てきた橘先生。「日本人は真面目で硬い。だからなかなか友達ができない」と指摘する。もちろん先生とて日本人。
  アメリカにきた頃は失敗の連続だった。例えばナンパ。「店で女の子に声かけて、うまく店を出られたと思ったら『グッバイ!』とかわされたり、カウンターで女の子と仲良くなったら、近くにいた男に殴られそうになったり」。
  離婚も同じだ。「自分では相当落ち込んだけど、大学の仲間もほとんど離婚を経験。『大した問題じゃないよ。Don't worry』なんて明るく声をかけられ、ずいぶん救われた」。
  そんな経験を経てたどり着いたのが「陽気に明るく振舞うこと」。つらい経験も笑い話にしてしまう姿勢が、アメリカ生活を楽しむ秘訣と言う。

 月曜日から土曜日まで仕事に明け暮れる毎日だが、合間を縫って小型飛行機の免許を取得中。いつかはハワイに移住して遊覧飛行のツアー業を営もうと考えている。
2?3年かけて世界一周旅行もしてみたいとか。数多くの苦労を内包した明るさだからこそ、余計に人をひきつけるのだろう。どこに行っても先生は、多くの人たちの中心で明るく笑っている気がする。


 

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