倉島ヒロ (和太鼓)
専門:和太鼓
年齢:n/a
在米暦:25年

8歳のころよりドラムの真似事を始め、音楽の世界にあこがれながら1979年、ニューヨークにやってくる。2年間の学生生活の後、アメリカ永住を決意し日系旅行会社に就職するが3年で脱サラとなり、大工見習いとなる。その後フリーランスの大工となるが、同時に、健康食料品販売業、不動産業などを起業するがどれも長く続かず失敗に終わる。いっぽう、1993年に偶然にも和太鼓と遭遇。強く心を引かれ和太鼓のとりこに。和太鼓グループTAIKO MASALAを創立し、イベント参加や、毎週末の太鼓教室など精力的に活動している。仕事の面では、母体の内装デザイン業のF-1コンストラクションが今年で創業12年。いままでマンハッタンに12店舗あるインド料理レストランBaluchi'sのデザインを一手に引き受けてきた。また、日本でも人気のある若手イラストレーターのルーベン・トリード、奥さんの、こちらもまたニューヨーカーに人気のイザベル・ブランドの創始者、ファッションデザイナーのイザベル・トリードのスタジオやロフトなどを手がけてきた。一方、株式会社TAIKO MASALAを起こし、太鼓演奏のみならず、Made in Americaの本格的和太鼓を製造、販売している。アメリカ国内にとどまらず、ヨーロッパ、オーストラリアからも問い合わせが来ている。加えて、若手ミュージシャンのプロモート、イベント企画など今後は幅広く手がけて生きたいと語っている。

「仕事とは報酬を得るため、生活のため、
  そして何より人を喜ばせるためのもの」

自分の場所を求めて、 ニューヨークにたどりついた

学生時代、友人たちが高校受験や大学受験にあくせくするのを横目でみながら、ドラムに打ち込んだ。自分は受験勉強に価値を見出すことができず、高校を卒業すると海外を旅行して回った。
  父親のように満員電車にもまれながら会社に向かうサラリーマンにはなりたくない。どこか自分の居場所はないかと探して歩いた末、たどり着いたのがニューヨークだった。
  「音楽で生きることを諦めたが、何か仕事をして生きていくためには欧米で生活するのが現実的だった」という。
  語学学校に通った後、ニューヨークでサラリーマン生活を送るがやはり性に合わない。器用な手先をいかして建築関係の仕事に就き、店の内装工事などを手掛けるようになる。和太鼓と出会ったのはそんな頃だ。
  「長い間音楽から遠ざかっていて、久しぶりにニューヨークで出会った音楽が和太鼓。4ビート、8ビートで刻まれる洋楽とは全然違う複雑さに衝撃を受けた」と当時を振り返る。
  倉島氏に言わせれば、少年時代に憧れたロックは世界中の音楽を集めた「最大公約数の作品」。しかし各国の伝統音楽はその地の風土や歴史が築き上げたもので「複雑かつ奥深い」。改めて音楽の魅力に気づいた倉島さんは、仕事の傍ら、太鼓の練習に打ち込むようになった。


太鼓を通していろいろな人と出会える、 それがニューヨーク

今は週末を太鼓指導にあてている。そこにはいろいろな生徒が集まってくる。外国人と結婚して子どもを持った日本人の母親や父親。インターマリッジした親たちが母国の文化を伝えるために子どもと通う。日本に関心のあるアメリカ人や、日本人の留学生も生徒だ。
  和太鼓グループ「TAIKO MASALA」を主宰し、月数回は学校のイベントなどで演奏する。
  「コンサートに向かって練習に打ち込み、終わった後に得られる達成感や、太鼓の音が共鳴するときに得られる一体感は、自分の人生になくてはならないもの。なによりも太鼓を打つことでいろいろな人が楽しんで喜んでくれるのがうれしい」という。
  彼曰く「仕事とは、報酬や生活のためのものであり、何より人に喜んでもらうためのもの」。だから今の彼にとって音楽は「有名になるとか成功するということが目的ではなく、楽しむことが目的」だ。これまでアメリカンインディアンやスー族など、様々な人たちを共演し、一体感を味わってきた。将来は誰もが気軽に行ってたたけるような、太鼓センターをニューヨークに作りたいと言う。

 夢を実現することは難しいが、諦めることもまた難しい。だったら、どこまでも夢を追いつづけ、納得する人生を送りたいと、倉島さんの生き様をみて強く思った。


 

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